人はみな、遊びをせんとや生まれけむ。遊びするなら、コロナ対策。

毎回毎回同じことを言っているが、きょうも言おう。人間が誰とも会わなければウイルスは感染先を失って絶滅する。

このシナリオが正しいなら、誰とも会わない暮らし方こそが社会全体で行なうべきことである。
誰とも会わない暮らし方とは、ロビンソン・クルーソーかボーマン船長のような暮らしである。世界に自分一人しかいないならそうした孤立生活もできようが、周囲に家族や他人の生活圏があるときにもできるか? 
かつて、行なわざるを得なかった人がいた。旧日本軍の小野田少尉だ。彼は、戦争が終わってから30年のあいだ、フィリピンの山中で一人で暮らした。ごくたまに偶然村人と出会う以外、人間との接触はなかった。いやはや、感染対策としては完璧な暮らし方である。
この例外的な暮らし方を、コロナ感染のリスクを遮断する目的で、マネできるか。山中に隠れるのではなく、市中の家に住みながらそれができるか?
同居の家族持ちにはできないが、意地っ張りな単身者の仙人ならできるかもしれない。たとえば、彼は、マスクや手洗い消毒は当然として、
隣人とすれ違っても会釈するだけ。言葉を交わさない。
家族や友人とは、遠方に単身赴任している人のように、スカイプや電話で話す。
会食は絶対にしない。人が集まるイベントには絶対に参加しない。
買い物に行った店でも、筆談に徹する。
といった超然たる「孤高の暮らしぶり」をする。
これなら、感染対策として、満点に近いであろう。単身者であるなら、出来ないこともない範囲だ。
これをやる単身者は、完璧な感染対策者として、社会に協力していることになる。もう一回でも十回でも、10万円の協力金をもらう資格がある。

コロナ禍の時代は、人は「完璧な感染対策者」として暮らすことが求められている。「中途半端な感染対策者」という存在は、許されているとは思えない。
「殺すな、盗むな」同様に、「病気をうつすな」も昔から人類共通の道徳だった。その延長線上で「感染対策者たれ」が、今日的な倫理になった。

東京都では「感染防止徹底宣言ステッカー」を貼っているお店を安心できる店として差別化することを始めた。「感染防止徹底します」宣言をしないお店は、劣等付けられるのだ。すべての店に「感染防止徹底」の行動を義務付けるのは、いまのところ法律ではないが、やがて衛生法規のひとつになるかもしれない。禁煙政策と同じで、店は新しい義務を引き受けざるを得ないだろう。

個々人も、店が義務を引き受けるのと同様、何かを引き受けねばならない。それが、「感染対策者たれ」のモラルである。
感染が拡大する実情を見聞きすると、ひとがハメを外したとたん、感染対策行動者ではなくなる。気持ちが緩んだとたん、感染リスクを避ける行動を破ってしまう、「まっ、いいか」「ちょっとぐらいだ、だいじょうさ」。そして、他者との接触度合いが増える。口から出るエアロゾルを互いに掛け合う頻度が増え、隠れ感染者が一人でも混じっていれば、ウイルスをうつしあう。
「自分は感染対策者たれ」のアイデンティティを忘れただけなのに、ウイルスの威力に火だるまにされかねない結果を招くのだ。

小野田少尉のマネはできなくても、「自分は感染対策者である」のアイデンティティを定めることはできる。自覚と性善説からの出発だが、言うことを聞かない悪党がはびこるなら、罰則を設けて矯正するしかあるまい。


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