おいらの船中七策

前記事からの続き::

維新、革新、革命のうち、現代日本人の織田信長好みからいうと、精神的にスッキリする「革命」を好むのかもしれない。
とはいえ、現実には最初から革命に走ることはないだろう。いまの政府・公機関に一定の能力があることを一応は国民は認めているから、いきなり、ぶっ壊す行動には向かわない。
かつて小泉氏は「自民党をぶっ壊す」といい、最近N国は「NHKをぶっ壊す」とスローガンしたが、どちらも本気ではなかった。ぶっ壊すことなどできないと本人は知っており、ただ、それに挑戦する自分の姿をアピールして見せただけだ。本当にぶっ壊す気のある正当や政治家はいるのだろうか? 共産党さえもくたびれて新鮮味を失ってしまっている。
いまは、革命など、誰もやろうとしていない。改良、改革、イノベーションは叫ばれるが、スクラップ&ビルドは言われなくなった。スクラップする必要があっても、スクラップされる側が生き延びたり復活したりできる機会が設けられた変革プランになってしまうのだ。全体としてみれば、賛成派と反対派のあいだで胡散臭い「winwin」の妥協をつくるだけで、見かけ上は対立軸が存在しないかのようだ。
社会の空気がそういうときには、維新や革新が得意な妥協と利害調整の大人の行動スタイルで、実現可能な具体プランが探られる。維新はあらゆる事態を復古的に取り込もうとするメンタリティをもつので、交渉の余地がもっとも大きい。

変革が必要だというのに、いつもいつも骨抜きになるのはなぜか?いったい何が起きているのか?
変革の提案が最初に登場するのは、雑誌などのメディアだ。一部のひとの注目をあつめ、やがて次第に多くの人々の関心と賛成を得て世論が形作られる。政府の政策としてとりあげるべきだという勢いが増すと、政府のほうでも真剣に検討し始める。
このような段階で、かならず現れるのが、変革を嫌う人である。変革の具体的なプランを検討するふりをして、変革案がいままでやってきた良い点を壊す危険をとうとうと述べるのである。ちょっとした変化さえ嫌う人から、変革の利害得失を理性的に考えるふりをする人まで、いろいろな反対者が登場する。この人達は、抵抗勢力と総称されるが、実態は、変革そのものをぶっ壊そうと決心している人たちだ。賛成派のプランの隙きを見つけ出し、隙きがなければイチャモンや揚げ足取りをつかってでも、アゲインストの風を扇ぎ立てる。
変革を進めたい側には、反対者を賛同者に変えることで勢いを増していきたい思いがあるから、原案を一部修正するくらいで反対者をとりこめるなら、原案修正に応じる。
変革に反対する側も、こうした交渉の余地あることを好む。交渉によって、変革しないですむ部分を多く残せるからだ。賛成派の案を手直しさせて、いままで通りにやる部分・変えない部分を確保できれば、既得の利益を守ることができるからである。これは革新といわれるタイプの得意なやり口だ。変えないですむことを許す交渉相手と同盟を結ぶことで、事実上の主流派になろうとするのである。
変革を進める側と変革を進めさせたくない側の駆け引き交渉が、原案の骨抜きを生じさせる。
かんじんな部分が骨抜きされれば変革は変革でなくなる。
新しいものと古いものを足して2で割るスタイルである維新も、自分の利益が一部でも確保できれば相手がかすめ取る利益には目をつぶるスタイルである革新も、いまよりプラスの利得を実現するために、結局は、変革のかんじんな部分を犠牲にするタイプのスタイルであるのだ。
これに比べて革命は、交渉の余地が殆どないというスタイルなので、変革のかんじんな部分を犠牲にすることもほとんどない。それは融通がきかない頑なな態度でもあるので、交渉相手に嫌われて孤立を生む。
革命スタイルでは、周囲に嫌われる態度をとってまで、主張を押し通そうとするのは、変革なしには自分がひどい境遇のままに置かれてしまうという自覚が強いからである。それは、変革なしにはひどい境遇になるという立場の痛切な自覚であり、本来そんな目にあわされるのはアンフェアなことだ、という怒りなのである。
端的に言って、維新や革新にとって、変革は、変革前の状態にボーナスを加算する行為だ。しかし、革命にとって、変革とは、本来得られてしかるべきだった変革後のレベルを享受することを邪魔してきた障害を取り除く作業なのだ。

維新が1点、革新が10点、革命が100点、とおいらが点付けしたのは、行き先のわからない漸進主義ではなく、行き先がぶれない理想主義こそが、いま、必要とされていると感じるからである。

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1945年に軍人が去ったあと、焼け野が原の日本の再建は、官僚組織がやるしかなかった。大蔵省と通産省の手で乏しい国家予算を優先する産業に重点的に使って再建を急いで、それは成功した。
しかし、戦後はすでに75年。あきらかに社会の指導層全体が、老いて、しなびて、泥の中で足をとられているかのようだ。おいらの記憶では、1980年頃から、この根腐されが始まったような気がする。

国家も大企業も官僚制組織の決断の非効率に陥っている。管理に監理を重ね、老婆心以上の心配性が退嬰的にまで肥大して、組織の行動スピードは、グズでノロマだ。総理の口からはしょっちゅう「スピード感をもって」という言葉が聞こえてくるが、彼が指揮する国家公務員37万人地方公務員280万人が、事務所を歩く速さや書類をつくるスピードを改善したとは聞こえてこない。老化した肉体と同様に、スピードをだしたくても出せないのだ。

官僚組織が政府の行政権力をつうじて社会を維持成長させるというモデルは、この75年間で、そうとうくたびれている。そろそろ総取替してもいいころだ。あるいは、総取替しなければもう社会がもたない時期に来ている。次のモデルがなんであれ、旧モデルから新モデルへの変革は、時間をかけず手っ取り早くやりたいものだ。流さざるを得ない血の量も少ないほうがよい。

新モデルの国家いついての、おいらの船中七策は、
1:中央政府は小さく、地方政府は大きく。
2:中央政府は、外交と防衛と国際通商だけやる
3:地方政府は、警察権と徴税権と民政権をもつ。
4:地方政府が、中央政府の運営に交付金を出す。
5:議会の議員は、国民のくじ引きで決める。
6:国民には、無償住宅とベーシックインカムを支給。
7:成人国民ひとりにつき週1回、地方公務員の仕事を無給でする義務。


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