日米の議論の仕方の違いから思うこと

4日連続で東京の感染者数が50人をこえている。「東京アラート」の基準では、営業自粛要請を行なうレベルだが、政府も都も当局者は、きょう(6月30日)新しい基準を発表するという。1日50人が1週間続いたら営業自粛要請という基準ではない新基準を作文しようとしているようだ。「感染者数が増えているのは検査が増えているため」とか、「若い人の感染が多く、重篤化せず治ってしまうので深刻な事態とは言えない」とか、「医療体制にも余裕があるので危機ではない」とか、いろいろの言い分が聞こえてくる。どうしても「自粛要請」したくないらしい。

当局者の底意は、
「みなさん、用心しながら、仕事や商売に勤しんでください。新型コロナ対策のために赤字国債を出すのですから、稼いで納税してください。当局は用心してねとちゃんと警告してますから、あとはあなたの自己責任。ウイルスから身をかわす個人的工夫をして、公費でまかなう医療には負担をかけないでね」
である。

ワクチンができるまで対策の決定打はないとしても、我々の社会の当局者たちは、なにもかも国民個人まかせの構えだ。手厳しい文句を言われるまでは、ぬらりくらり。動かざるをえなくなってから、亀の速度でいやいやあるき出す。グズでノロマというより、典型的なサボタージュといえる。
「専門家は、生活者に対する注意喚起として警鐘を鳴らすべきであって、当局者に対策をせっつく言い方であってはならない」というのが、彼らの態度である。国民は「政府がなんとかしろ」と政府当局者に要求してはけないのである。今般西村大臣によって専門家会議が解散させられたのは、「政府になんとかする責任があるだろう」という素直な専門家たちと、「ウイルスがはびこるのは政府の責任じゃない」という役人の対立の一幕だ。次の幕で何がおきるか予想はつく。コロナ対策の大本営の役人たちは、些末な雑用的施策に走り、ウイルス感染を抑える根本戦略で大ポカをやってしまうだろう。

日本では「自粛か経済再開か」という言葉で語られるこの対立は、日本以上に対立が激しいアメリカのCNNでは「健康か経済か」という言葉で表現されている。BBCでも「health or economy」だ。
「健康か経済か」という問題提起の仕方のおかげで、わかることがある。
たとえば、工場が水銀を流して住民に悲惨な健康被害を与えた事件はまさしく「健康か経済か」の問題に帰着するが、新型コロナも、自粛するしないという日常行動のありように帰着させるのではなく、「健康被害」という概念で考え直すべきではないか。少なくとも、日本では、疑うこと無く「自粛」と「経済再開」の2択で考えるようにしむけられているが、その常識がそもそもおかしいのではないか。
「自粛しますか・経済再開しますか」という2択の提示は、「自粛してると金がなくなるなぁ」と心配になる普通の生活者に対して、「経済」を選ぶよう誘導尋問しているのと同じだ。「健康をとるのか・経済をとるのか」という2択なら、誘導尋問ではなく、公平な議論ができる。
このところの大臣・官僚・自治体の当局者の「経済再開する。自粛とステイホームはやめ」という方針への集団暴走のような傾斜ぶりは、「自粛or経済再開」という誘導尋問で議論に勝利できたと錯覚しているせいであろう。「健康か経済か」という議論なら、経済再開への集団暴走は起きない。
問題を提起するのが役目のはずのテレビのコメンテーターも「健康か経済か」という立論をしているひとはいない。日本では当局者もコメンテーターも、「自粛or経済再開」以外の議論の角度があるとは気づいていない。ただうっかりしてるだけなのか、まぬけなのか。あるいは、何かといえば自粛で恭順の意を表す自粛好きが身に染み付いていて、自粛してれば自分は無罪という安心に居を定めようとするのか。その心理的な癖に、日本社会の集合意識の弱点を指摘できるだろう。

自粛警察という異常な干渉者が現れたのも根がいっしょだ。かつて中国で「反日無罪」という社会現象が起きたことがある。自分を無罪の場所に置ける場合には、安心しきって他の選択肢を考えなくなるのは日本だけというわけでもなさそうだ。

「自粛か経済再開か」は、個人や会社に対して行動の選択を迫るものだが、「健康か経済か」は、考え方の原則の選択を迫るものである。
原発のときもおなじような構図だった。原発問題は「経済か安全か」に帰着する問題だが、当事者である経産省・電力会社は、この議論を避ける。「原発から遠く避難してれば安全なのだから、できるだけ遠くに住めば、あるいは、遠くに住んでるのと同じような状況をつくれば、原発による便利で安価というメリットを享受できます」という話法に力を入れる。さらに「あなたの土地の汚染土を運び出したので、もう放射性物質は残っていません。遠くの避難地と同じです。安全です」とたたみかけていく。原発そのものの安全性確保ではなく、あなたの土地の安全性を議論したがるのだ。コロナを「健康か経済か」問題にせず、「自粛するかどうか」に持っていくのと同じレベルの矮小化なのだ。

日米の議論の違いは、社会的議論のありかたとして、決定的だ。日本でも、議論で選挙を戦う政治家は議論を恐れないが、議論して負ければクビ左遷になるリスクを恐れる役人は、そもそも議論の場から逃げる。いままでの日本の官僚の歴史で、一つの方向に命をかけた役人は、大塩平八郎以外にいたか? 明治政府が官僚養成のために東大法学部をつくって以来、キャリアを目指すお勉強好きの坊っちゃんたちは、同時に口伝で教えられた「物言えばくちびる寒し」の処世訓を応用して、自分の身を安全な別室に置くための巧みな議論回避術を身につけた。キャリア官僚独特のこの習性は、議論しないで空気で結論を出す日本的組織風土(これは、和をもって尊しとするという教訓が悪く機能した例)にぴったり適合して、世間に蔓延ってきたのである。キャリア官僚のこの側面を例えれば、土台を蝕むシロアリか、歯茎を腐らせる歯周病菌である。
日本の役人組織は、総取替しなければならない。

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