夏の夜の怪談噺。脱構築できないキャリア官僚がゾンビ社会をつくる。

世界では63万人。日本ではおよそ1000人がコロナで死んだ。今日から年末までに死者はどれだけ増えるか。1年後の死者数はどうなるか。

たくさんになるだろう死者の中に、あなたやおいらが入ってないことを祈る。
ちょっと待て。死なないことを祈るのはなぜか??
「死なずに生き続けることを祈る」のは、現代人の当然の考え方になっているが、哲学者フーコーの「生の政治」説を演繹するなら、「現代では個人は、生きなければならないという倫理を内面化させられている結果、政治が人々のその自縛を利用したり、圧迫につかったりする」。つまり、現代人が生きることを倫理的に当然と思うのは思い違いであり、当然と思うよう、何か見えない権力のようなものによって強いられているのだ、ということだ。「生きる権利」は、そう思い込まされているだけだ、というのである。

きょうのニュースで、ALSの人から頼まれて安楽死を処置した医師2人が逮捕されたと伝えられた。老老介護の疲労の中でツレアイに殺してくれと頼まれて殺す事件など、似たような事件がときどきある。

人はふつう生きていたいと思っている、というのが、昔から人間どおしの共通理解だ。
20世紀以降の現代では、生きていたいという意志を全面的に肯定して、すべての人に生きる権利があるという認識にいたり、さらに、人権としての生きる権利を否定することは許されない、という賞罰観に行き着いた。
生きることの否定は罰せられる、生きることの肯定は賞せられる、というのが、我々の時代と社会の大骨格になっている。
そして、それは何ら不思議のない当然のことのように、疑わないでいる。
ところが、ふと見渡して、安楽死や尊厳死を許容するレベルに進んだいくつかの外国にくらべれば、日本は、教条的なまでに「生きることの否定は罰せられる、生きることの肯定は賞せられる」社会になっていることに気付く。関連したニュースに聞き耳を建てていると、NHKも、新聞も、産経も、公明新聞も、赤旗も、これに逆らう論調は打ち出せないでいる。ただのひとつも例外がない。
おや、これは、どうしたことだ?
自身がALSを患う国会議員の舩後氏はテレビで「死ぬ権利より生きる権利を守る社会であるべきだ。死ぬ権利を認めると、人の世話になりながら生きるしかない者が生きづらくなる」と発表した。その恐れはあるが、死ぬ権利を認めないのは間違っていると、おいらは思う。

公平に話をすすめるなら、今は議論のときだ。死ぬ権利を絶対的に認めない現代日本の倫理観を、俎上に乗せて議論するときだ。

自分の考えの中に社会から洗脳されて疑いを抱いてない部分があるとき、ふとした瞬間にどうもそれがあやしいと気づくことがある。一度あたまの中を棚卸ししてみないことには、自分の考えがほんとに自分の考えかあやしくて、信用ならない気がするようなことだ。誰かに洗脳されたというより、自己で自分を洗脳してしまったということが多い。
そんなとき自分の考えを解剖的なまでに客体化し、ついで、自分の考えを純粋に理性化して再構成する確かな方法がある。「脱構築」というやり方である。
この「脱構築」をつかえば、日本という、教条的なまでに「生きることの否定は罰せられる、生きることの肯定は賞せられる」社会で、疑うこと無く共同常識の羊水のなかでまどろんでいる無邪気な胎児のような自分に気付けるだろう。
議論の結果、死ぬ権利が否定されることになっても、脱構築して考え抜いた経験は、次の時代の新しい倫理観の形成に生かされるだろう。

あはー。脱構築の話とコロナの話は、ずいぶん性質が違うね。
確かにそうだ。
脱構築は、正直で誠意ある考えをみつけるために自分をどう変えるかという内省の方法。
一方、コロナについて話すのは、自分ではなく政府当局者などの他人がやってることを、ガンガン発言して、こちらの意にそうように変えさせる圧力放射のひとつだ。
1日数組のおなじみさんしかこないスナックのような、おいらのスモールブログでも、ある意味、世論の当局に対する圧力放射を高めている、はずと信じたい。

コロナ対策を担っているはずの政府の当局者は、脱構築をしない。脱構築ではなく、上積み・上塗りをするばかりである。
脱構築という日本語はいかにも不自然だが、もとの言葉は、「解体」だ。当局者は「法」も「いままで積み重ねてきた行政」を解体できない。あの小泉氏でさえ「自民党をぶっ壊す」で支持を集めたが、壊せなかった。
しかし、すべての政府当局者が脱構築できないかと言えば、そうでもない。ドイツのメルケル氏とカナダのトルドー氏は脱構築できるタイプに見える。プーチン氏は帝位について以来手づから作ってしまった構築物が多いので、脱構築は出来ない。中国共産党も同じだ。毛沢東は作っては潰す政争好きだったが、脱構築という方法論については何にもしらなかった。日干し煉瓦を高く積み上げるやりかたしか知らない習近平も、日干しレンガの自重に負けないほど強靭な社会は作れない。社会の未来への成長と発展は、脱構築という方法でのみ可能になる。日本も、脱構築できないキャリア国家公務員の群れを使うしかない限り、未来への成長と発展は生まれてこない。

そういう意味で答えはもうわかっている。自民党そのものを壊すよりも、自民党が乗っかっているキャリア国家公務員の群れを総取替しなければならないのである。

キャリア国家公務員の群れを総取替すれば、コロナ対策もスムーズに進み、目覚ましい効果が出るだろう。政治家だけでなく、役人についても人心を一新できれば、状況は変わるだろう。そういう正しいボタンを押さずに何をやっても、時間がかかるばかり。皆が貧して鈍して、国家社会としてゾンビになってしまうだろう。

この話が夏の夜の怪談でなければよいのだが。。。

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