2次被害について考えてみる。
緊急事態宣言のころ、「自粛警察」という行動が活発になった。
・公園にいる子どもに「うるさい」と怒鳴る、
・外出や買い物を「店シメロ」→「店シメロ」
・「次発見すれば、警察を呼びます」などと張り紙をする、
・県外ナンバーの車はあおり運転の被害に……。
・ツイッターやSNSで外出やマスクなしを非難
というようなことだった。
自粛してないように見える態度は、不謹慎。そういう感情が起こした事件だった。
不謹慎(ふきんしん)とは、慎みや考慮、思慮分別の欠如などを責める言葉だ。それを見聞きする他者を不快にする態度や発言だというわけだ。
慎むべきなのに、ふざけたような態度であること。
具体的には、事件・事故・災害・人の死・人の不運不幸などに関して、本人や遺族や被害者に不快感を与えるような表現のことだ。
先だって、安倍氏が辞任を表明する前のころ、「1980年に現職総理大平氏が倒れてなくなった,2000年現職小渕総理が倒れてなくなった。20年おきに現職総理が死ぬようなことが起きるとすれば、今年は,2020年。現職安倍氏も 気をつけたほうがいい」というツイッターが投稿され、これが「不謹慎」として、炎上した。
20年おきに現職総理が規則的に死ぬというような法則はないのだから、たしかにザレゴトなのだが、そのようにザレゴトを言うのは、不謹慎なのか? イギリスでもこれは「不謹慎」になるだろうか。
不謹慎を和英してみると、「unscrupulous」。
これを英和してみると、「悪辣な」「非良心的」とある。
つつしみ深くないというニュアンスより、きついかんじだ。
たとえば、
・新型コロナで自粛中に、デイサービスの利用は不謹慎か?
・ランチでビールを飲むのは、不謹慎か?
「わいせつぶつ論争も似てますよ」と、弁護士に説明された。わいせつか芸術かの裁判は昔からあるが、解釈の是非ではなく、じつは、そこに不快に感じる人がいるという 事実を起点にして判断するのが法の立場だ。見た人がその文字面や図柄に驚き、不快な思いをしたならば、不快な思いという被害を与えた加害はまぬがれない、ということだ。
陽性になった人が、「感染者の家の前を通るのもイヤ」などと近所の人から、誹謗中傷された(福井)という記事を見た。感染したのは本人がマスクしないでどんちゃん騒ぎしてたからだろうと、邪推で愚か者扱いされているのだろうか。感染した上に近所隣人から誹謗されるのは、2次被害だ。ここには感染のリスクはお互い様という寛容さがない。たとえ、仮に、ハメをはずして感染したのが事実の場合でも(記事ではそんなんことは言及されていない)、それを誹謗中傷するのをみるのは、うんざりする。不快に感じる。誹謗中傷するほうこそが、それこそ不謹慎なのではないか。
こうして、互いに不快を螺旋状につのらせて、解決も開放感もない事態になっていく。最初から、不快を感じることをせず、不謹慎を言い募ることもしなければ、ストレスを生まないはず。ようするに、変なことを言ってる人がいても、イギリス人のように、肩をすくめて、無視すればいいのだ。自分の感じる不快に「こだわって正当化しようとする態度は、childishすぎないか。