コロナ禍の初詣をどういう形にすべきか、西村大臣が検討する。AIやスパコンを使って、参拝者の間隔をきめるんだろうか。

きょうの新規感染者数、東京78人。全国302人。

・世界では死者が100万人を越えた。WHOは、200万人になる警告を出している。

・都立広尾病院は、院内の感染者が増えて11人になった。

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【おいらの、「10年ひとむかし」論】

コロナウイルスの日々の感染伝搬は、新規感染者数で捕らえることができる。
日本、アメリカ、英仏西欧はG7先進国という同一の括りで医療健康のレベルはだいたい同じと思っていたが、コロナ感染では異なった状況になっている。
不意打ちをくらった春ごろまでは、国によって状況がことなるのもしかたがないと思えたが、いまだに、アメリカは未だ超高止まり、英仏西欧は第2波、日本は1日500人で下げ止まりという大きな違いのままというのは、各国の国民性の違いというほかないのかもしれない。
感染数が少ないほうが不幸が少ないのは確かだが、社会運営が優れているというわけではあるまい。米英はワクチン開発の先頭に立っている社会であるが、日本は遅れをとっている。

政府の価値が社会を、国民の高い満足状態で運営していくことにあるとするなら、ここ3ディケードの日本政府は無能力に堕したままだった。
decadeディケード(10年のこと)という言葉は、米国人の進歩観念の根底にある目盛りだが、このことばを持たない日本社会は、10年一区切りという時代観念も持っていない。「10年経ったらすべてが中古」という観念が骨身にしみていないと、「10年ですべて衣替え」という新陳代謝を実現できない。道具や機械が中古化するだけでなく、法も規則も、倫理道徳も社会の価値観も、中古化する。国家百年の計である教育の中身も、10年前と同じことをやっていたなら、そのアウトプットである青少年はできたとたんに中古化していることになる。定年まで30年間以上勤務し続ける役人は、中古化どころか老朽化する。地方議員も国会議員も終身職業だと思い違いせず、10年一区切りでケリをつけるべきだ。
日本では、上が10年でいなくなる世代交代は行われたことがない。10年ごとに大きく変わっていくことが社会にダイナミズムを与える。日本がここ30年で遅れを取ってしまったのは、30年前のバブル時の対応に失敗して、社会の変化をできるだけ小さくする既得権保護行政を行ったからである。これが国民の士気を奪い、打破のエネルギーを無駄使いさせ、挑戦よりも安穏という退廃性を生んだ。コロナにぶち当たって、その姿に気づいたが、失った筋力は一朝一夕には取り戻せない。大胆な駆け足で問題を解決したいがなかなかできそうにない。政治家が「スピード感をもって行なう」というのは、「前もってやっていませんでした。遅れています」の裏返しなのだ。
これからは仕事も活動も趣味も娯楽も、コロナ感染を避けながらやるしかない。それは、そんなことを意識する必要のなかった時代にくらべれば、足かせでもある。その分、すべてがノロノロしたスピードになる。成果が出るまで余分な時間がかかる。変化が必要な時代なのに、変化の起こしにくさが増える。下から上へ突き抜けるアメリカンドリーム型の成功物語はますます出にくくなる。
10年ですべてが変わっていくようなダイナミズムこそがこの社会の唯一の救いかもしれないのに、既得権層が漬物石のように立ちふさがるなら、それは、赤潮のような大問題である。


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