コロナに迫られる社会構造的変革。できるか?

コロナという事態は、いま日本社会に「いままでのようにはやれないよ・さっさと変えなきゃ行き詰まるよ」と迫っている。世界中が「新常態」と叫んでいるのは、「いままで通りにやれる環境はもはやなくなった。変えるという選択肢しかないのだ」ということだ。近視眼的には「感染の防止」を目的にした個人の行動変容を求めているわけだが、実は、長い目で見ると、社会構造的な変化を強いている。

たとえば、「三密」対策について言えば、個人として三密の方針にそった行動に変えることはさして困難ではないが、では、三密のひとつとしての「満員電車」はどうしてくれるのか。3月に三密が提案されたとき、満員電車はどうするのかとテレビでも質問が飛んだが、この答えは政府からも専門家会議からも示されなかった。
乗ってる人だれもが嫌なのに、満員電車の問題は、高度成長時代以来60年以上も放置されてきた。世界一の痴漢発生率という不名誉な問題も起こしてきたというのに、いまだ解決されない。
なぜか?
満員の通勤電車は日本の社会構造上の問題だからだ。
この問題は個人の問題に還元しようがない。JRや私鉄など鉄道会社の責任で解決しろ、という問題でもない。社会構造的に取り組むタイプの問題だ。
解決の具体策はあるのだろうか。
たとえば、出社時刻をずらすなどの就業規則の変更は経産省や労働省の管轄だ。車両や駅を2階だてにして輸送キャパを増やすとか職住接近の都市住宅政策のアイデアを考えるなら、国土交通省の管轄だ。
首都機能の分散や企業本社の地方移転など総務省や国土交通省か。
学生が満員電車に乗らないですむプランは文科省の管轄だろう。
比較的簡単なことからおおげさな計画まで、すべては個人の枠を超えて、国家行政府の、いままで続けてきた何らかの行政政策を変更する話になる。法、制度、運用のすべてを見直し、いまよりよいものにしなければならない。考えるだに大変なことだ。そういう難題にわけいることがを嫌って、テレビは、「満員電車と三密」というテーマから逃げてしまったのだ。(政府・内閣府も、議員たちもこの問題には手出ししたくない。手出ししても、功績を得られそうにないからだ)

満員電車問題のような、個人レベルを超えた問題は、社会全体で決めなければならない。関係する役所も複数にわたり、民間の会社や個人の利害関係者も数百万数千万人の多きに登り、うるさ方が主張をわめき、公聴会でも異論百出、船頭多くて船が山を登りそうだ。結局、満員電車という世界のもの笑いを止める見込みがないとは。。。。

満員電車問題に限らず、近隣や共同体や社会でひとつの方針を決断する場合、噴出する異論との調整をどうやるのが適切なのか。 
争うことなく、穏やかに話し合って、場の空気の成り行きで自然に決められればいいというのが日本人の好みだろう。あるいは、皆が信頼できる人物に一任してその人の決定におまかせする昔ながらのやりかたが気楽でいいという日本人も多い。だが、現実の国会では、数で押す与党は審議打ち切りの強硬採決を辞さない。牧歌的な「和をもって尊しとする」幻想は、決定機構にはもはや存在しない。
「いままでとちがうことをする」という変革の合意は多数決で決められるとしても、多数派を形成するための実質的な行動は、結局、3つのスタイルしかない。
維新という行動スタイル、
革新という行動スタイル、
革命という行動スタイル
の3つだ。
3つは、やることもテイストもまったく違う。どう違うか?

■「維新」:英語ではrestorationと訳される[1]restorationには復古といった意味がある。古いものをもってきて、あたらしく仕立て直すことに近い。
明治維新は、古代の制度である天皇を近代国家の元首にしたてる構えをもうけることで、新政権の正統性をひねり出した。
維新の行動スタイルの特徴は、古いものと新しいものを足して2で割る妥協性である。
(現代の「大阪維新」は、英名を[restration party」としていたが、あとになって、「innovation party」と変えた。「復古」では都合がわるかったのだろうか。定義はいくらでも設え直すことができる。彼らの実態が「復古」ではないとは証明されていない。なにより信用しきれないのは、彼らの「維新」なるものは政治上の表明であることだ。哲学や社会科学ややむにやまれぬ人生観にのっとって出来ているものではなく、発起人の個性あるキャラクターや瞬間芸のようなアイデアで接着された、ウケ狙いのハリボテに見える。)

■「革新」:現状変革のこと。新たに革(あらた)めることを意味し、既存のものをより適切と思われるものに変更することを意味する。 伝統的な政治学の図式では、左翼(left)・社会主義(socialism)・共産主義(communism)、あるいは社会自由主義・社会民主主義と同義。
革新の行動スタイルの特徴は、ゆるがぬ建前と実利害での計算高さである
(革新とはいえ、すべてのテーマについていつもいつも現状変革を試みているわけではない。戦後75年という時間の中で、労働者の組合、社会福祉の団体、社会的弱者を救済する団体など革新系のほとんどすべてが既得権層になっている。既得権をもつものは、既得権による利益やその運営の経営特権を手放さないので、変革の邪魔になることも多い。持っていなかった既得権を持ったのちは、あとから来た既得権をもたない集団を実質的に裏切るのである。)

■「革命」:被支配階級が時の支配階級を倒して政治権力を握り、政治・経済・社会体制を根本的に変革すること。「産業革命」「流通革命」など、物事が急激に発展・変革するときにも使われることばだ。
革命の行動スタイルの特徴は、敵を倒して成り上がる粗暴性である。
(維新が復古的にやる。革新は成功して変質する。に対して、革命は、敵を「倒して」成り上がる。倒してという言葉は婉曲な言い回しだ。実際は、敵の財産を奪う・地位から引きずりおろす・名誉や実績を汚す・行動の自由を奪う・肉体的に傷つけ・殺すこともある。被支配階級には「追い詰められてやるしかない」のであるが、暴力的でえげつない話であるので、やられそうな支配階級にとっては、「革命」は危険で非人道的で犯罪的な行為として嫌悪され、忌避される。)

要約すれば、

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維新はあらゆる事態を復古的に取り込もうとするメンタリティをもつので、交渉の余地がもっとも大きい。
革新は利害対立的な立場にこだわりながらも交渉の妥結を容認するメンタリティをもつ。
革命は交渉に期待せず、敵を破壊全滅させることを逡巡しないメンタリティを持つ。

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ということだ。

コロナが個人に行動変容を迫るなら、公機関は、個人が行動変容できるよう、法も制度もさっさと新しいものにさしかえねばならない。日本の政府・公機関がグズグズしがちな体質をもっているのは国民は百も承知だ。コロナが始まって以来この3ヶ月、「さっさとやれ」という怒声をなんど耳にしたことか。

で、社会的なことがらで変革をやらねばならない状況にあれば、あなたは、3つのうち、どのスタイルでやるのが正解だと思うか?
維新か?
革新か?
革命か?

ここまで述べてきた流れでは、おいらが維新や革新を推していると思えるかもしれないが、それは間違いだ。おいらの考えは、維新1点、革新10点、革命100点だ。

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